鎌倉時代
平安時代の終わりごろには、平氏や源氏といった武士が台頭し、現在の神戸市域は平氏の支配下にありました。平清盛は、都の玄関口と言える摂津国の西部に位置する福原に雪見御所と呼ばれる別荘を構え、大輪田泊を拠点とした日宋貿易に力を入れました。兵庫区の祇園遺跡では、園池や建物跡、中国製の陶磁器が発見されており、この場所に平氏の拠点があったと考えられています。平氏は、福原京遷都を行うものの、わずか5か月後には還都し、生田森・一の谷合戦などを経て、源氏に敗北してしまいました。市内には腕塚(平忠度塚)をはじめこれらの戦いにまつわる伝説をもとにした石碑などが各地に残されています。
また、大輪田泊は、源平合戦の後、荒廃していましたが、鎌倉時代に東大寺の重源によって修築されました。その後も律宗の叡尊や浄土宗の法然など、多くの宗教者が布教に訪れました。時宗の祖である一遍は兵庫の観音堂で亡くなり、真光寺に廟所が設けられました。
一遍上人絵伝断簡 (神戸市立博物館蔵)
室町時代
南北朝時代には、湊川の戦いなど神戸が再び戦場となりましたが、足利義満によりかつての大輪田泊である兵庫が日明貿易の拠点として整備されました。そのおかげもあり多くの船舶が行き来していたようです。文安2年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』という古文書から年間5,000隻ほどの船舶が入港していたと考えられています。しかし、応仁・文明の乱で再び焼亡し、国際港としての役割は、堺へと移りました。ただし、安土桃山時代には、豊臣秀吉により西国攻めや朝鮮出兵などの基地として再び整備され、瀬戸内海航路の主要港の位置を取り戻します。