奈良・平安時代
古墳が造られなくなり始める7世紀は、中国から新しい統治システムを導入して、国家として変化し始める時期です。
国家としての形を整えるために、律・令と呼ばれる法律や天皇が土地・人民を支配するという考え方、平安京に見られるような都市計画などを中国から導入しました。国を有効に機能させるために官僚機構が組織され、官衙と呼ばれる役所が各地に設けられます。官衙同士を結ぶ幹線道路には、一定の間隔で駅家と呼ばれる、役人のために馬や食料を提供し宿泊もできる施設を置きました。これにより政治・情報・文物など様々なものを円滑に流通させる仕組みができあがりました。
現在の神戸市域には、山陽道と呼ばれる大きな道路が海岸部に通っていました。近年の発掘調査によって、須磨駅家(大田町遺跡)や芦屋駅家(深江北町遺跡)、莵原郡・八部郡に置かれていた郡衙(郡役所)と考えられる遺構や遺物も見つかってきました。さらに山間部にも奈良時代から平安時代の遺跡が見つかっていることから、何らかの道路が通っていたと考えられます。
山陽道をはじめとした陸上交通だけではなく、海上交通についても瀬戸内海航路が重要なルートでした。瀬戸内海に沿って、大輪田泊、魚住泊などの港が整備され、海上の移動がスムーズになりました。これがこの後、平清盛の日宋貿易や足利義満の日明貿易などを行う上での下地になったと考えられます。
これら陸・海のルートを通じて、交易も活発になり、さらに仏教などの先進的な文化がもたらされると、地方の有力者や寺院の力が強くなり、彼らの支配する領域が広がっていきました。それを反映するように、市内からは瓦や貴重な陶磁器の他、西区の白水遺跡では寺の鐘を作った跡も見つかっています。