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近代(明治・大正・昭和)

明治時代

1868年1月1日(旧暦の慶応3年12月7日)に神戸港が開港し、国際港湾都市として歩みはじめました。

外国人の居住・営業の場として外国人居留地が造成され、商館等の近代的な建造物が建設されました。その街並みは整然として美しく外国人にも「東洋で最も美しい」と称賛されました。

ただし、居留地の整備が間に合わなかったこともあり、外国人の多くは現在の中央区北野町周辺に居住することになりました。彼らによって西洋食やスポーツなどの西洋文化が持ち込まれ、神戸の文化的な発展にも影響を与えました。中央区の東遊園地や六甲山の別荘・ゴルフ場などはその遺産といえます。また、彼らが信仰したキリスト教、イスラム教などの様々な宗教は今でも神戸に息づいています。

明治7年(1874)に大阪-神戸間の鉄道が開業するなど交通網が整備され、神戸港の重要性が高まると共に、造船業・紡績業・マッチ工業など様々な産業が発展しました。さらに開港に伴う急激な都市化を背景として、明治4年(1871)の生田川の付け替えや明治30年代以降の植林等の治山事業などが行われ、都市環境の整備も行われました。一方で、近郊の農村地域では西洋から安価な綿布が輸入されたため、現在の西区岩岡町周辺の綿花栽培等が打撃を受け、稲作への転換を余儀なくされるなど、開港は決して良い影響ばかりをもたらすわけではありませんでした。

大正時代から昭和時代

明治時代後半には阪神電鉄や阪急電鉄などの民間の鉄道も開業し、その後昭和時代にかけて鉄道の沿線で宅地化が進みました。特に東灘区の住吉周辺や須磨から舞子までの海岸部には、実業家たちにより邸宅や別邸がこぞって建築されました。一方で外国人居留地には、戦争による好景気を背景に、銀行やオフィスビルなどのモダンな建造物が次々に建設され、大きく街並みが変わりました。また、湊川の付け替えにより誕生した新開地には映画館や劇場などが次々に建設され、一大歓楽街に成長し、「東の浅草・西の新開地」と呼ばれるほど賑わいました。さらに神戸港は、ブラジル移民の出発港ともなっており、移民を希望する人々が全国から神戸に押し寄せました。

その後、米騒動や世界恐慌など不景気による社会不安や、昭和13年(1938)に起こった阪神大水害、そして第二次世界大戦末期には、主に海岸部の軍需工場などを攻撃した神戸大空襲もあり、大きな打撃を受けました。しかし、戦後には都市整備が急速に進められ、神戸は復興していくことになります。