トップへ戻る

近世(安土桃山・江戸)

安土桃山時代

室町時代末期には、現在の神戸市域も戦場と化しており、北区の淡河城や中央区の花隈城などの城郭が作られ、兵庫津も軍事上重要な港として利用されていました。信長の死後、豊臣秀吉は、天正13年(1585)に摂津国を直轄領としました。また、秀吉は有馬湯山をたびたび訪れ、有馬茶会と称される大規模な茶会も開きました。秀吉が亡くなる直前の文禄5年(1596)には大規模な地震が発生しました。畿内に甚大な被害を及ぼし、須磨寺(福祥寺)の『当山歴代』に詳細な記録が残るだけでなく、西求女塚古墳や住吉宮町遺跡にも地震による被害の痕跡を残しています。また、秀吉の湯山御殿は、この地震を契機に噴出した泉源に建てられました。

江戸時代

現在の神戸市域内には、海岸部に西国街道と呼ばれる主街道、六甲山の北側には、そのバイパスとして整備された湯山街道が通っていました。西国街道は、途中兵庫津の中を通るルートとなり、岡方と呼ばれる自治組織が、駅所を運営していました。一方で湯山街道にも宿場が整備され、淡河には本陣も置かれました。これらの地域ではその恩恵を受け、にぎわいを見せました。

兵庫津は、西国街道の宿場町としての性格を持つ一方で、古代以来の港としても発展していきました。江戸時代の前半に河村瑞賢により西廻り航路が開発されました。兵庫津はその主要港であったため、廻船問屋が増加するとともに北前船などの買積船が急増しました。町の発展と共に町場も拡大していき、一時期は人口2万人を有する大都市に成長しました。兵庫津の商人としては、豪商北風家や高田屋嘉兵衛が有名です。一方で、特定の西国大名と取引をする商人が存在していました。彼らの邸宅が参勤交代には本陣として利用されていたこともあり、岡方が運営する本陣に対して、浜本陣と呼ばれました。

六甲山系南麓地域では、水車を生かして酒造、製油、素麺業が盛んで、これの交易路を活用して各地に運ばれました。中でも酒造は「下り酒」として江戸でもてはやされ、現在も灘五郷では酒造が盛んに行われています。

幕末

こうして発展を遂げた六甲山系南麓地域では、幕末の対外緊張の高まりにあわせて和田岬砲台や海軍操練所をはじめ、大阪湾防備のための施設が造られました。さらに、神戸港が開国後は通商条約において横浜港などとともに開港地に定められ、明治時代以降の港湾都市へと展開していきました。